論語四十八の言葉(43)「人而無信、不知其可也、大車無輗、小車無軏、其何以行之哉(人にして信なくんば、其の可なることを知らざるなり。大車輗(げい)なく、小車軏(げつ)なくんば、其れ何を以てかこれを行(や)らんや。)」2015年12月04日 12:53

孔子が、信義がなければ、人との付き合いの中で、何事もうまくやっていけるはずがない。牛車に轅(ながえ)のはしの横木がなく、馬車に轅のはしのくびき止めがないのでは、牛馬をつなぐことができず、どうやって動かすことができようか、それと同じことだと言っている言葉である。

 

人は一人で生きていけるものではないが、人との関係(これは会社同士の取引関係でも同じ)では信頼が大切であり、それなくして何事も進まないのである。

信頼できない人からは遠ざかるべきだが、逆に自分が信頼されるためには、約束を守ることこそ一番大事なことだと、肝に銘じてきた。




原発再稼働問題:高浜原発差し止め仮処分取消しに関して2015年12月25日 11:47

昨日、福井地裁は、4月に出た関電高浜3、4号機の再稼働に対する差し止め仮処分決定を取り消す決定を行った。

この問題については、川内原発に対する鹿児島地裁判断との相違が出た時に、福井地裁の担当裁判官の判断には、科学技術上の問題に対する事実誤認があり、「正しい事実認識に基づかないのであれば、その主張には論拠がなく、かえって反対の主張を弱めることにもなる」という見解を述べた。

 

その意味で、今回の判断を担当された林裁判長は、科学技術上の問題点の事実認識を正しくされており、その上で、「原発について「絶対的安全性は想定できない」と指摘。2011年の東京電力福島第1原発事故の経験なども踏まえた現在の科学技術水準に照らして、「危険性が社会通念上無視できる程度まで管理されているかどうかという観点から判断すべきだ」との考えを示した。」とされている。

 

これは、私がこれまで述べてきたリスク論と同じであり、こうした科学技術上の問題に関する政策判断では、正しい事実認識に立って、リスクを評価し、それを前にした共通の土俵に立って、許容できると考えるか、いや許容できない(原発はリスクゼロでないと許容できない)と考えるかの論議になるべきなのである。

 

ところが、再稼働反対を主張する方の多くは、そもそも科学技術上の合理的評価に基づく新規制基準及びその適合性を、意図的に否定、誤認してリスクが大きいという主張をされる。リスクがゼロでないとだめだという主張では、そもそもそのような人工物は存在せず、すべからく我々の社会生活は成り立たず、多数の賛同を得られないと考えられるからだろうか、同じ土俵に立つことを意図的に忌避されるようで、残念なことである。

 

特に、一部のマスメディアにもその傾向がみられ、正しい事実認識をひろめて一般の人の科学リテラシーを高めるというのではなく、一方の主張に都合の良いように解釈して知らせる傾向があるようで、残念である。原発再稼働反対の論陣を張る新聞にもそれがあり、今日の朝日新聞社説主張にもそれが見られたので指摘しておきたい。

 

朝日新聞社説「高浜原発訴訟 司法の役割はどこへ」より
「原発はひとたび大事故を起こせば広範囲に長期間、計り知れない被害をもたらす。専門知に判断を委ね、深刻な事故はめったに起きないという前提に立ったかのような今回の決定は、想定外の事故は起こり得るという視点に欠けている。「3・11」後の原発のあり方を考える上で大切な論点だったはずだ。」

 

→判決は、現在の科学技術水準に照らして、危険性が社会通念上無視できる程度(許容できる程度)にまで管理されているか否かの判断でなされており、「絶対的安全性が想定されない以上、過酷事故が起こる可能性が全く否定されるものではない」と明確に認識している。それを、「深刻な事故はめったに起きないという前提に立ったかのような決定」と正しく決定内容を説明しないで都合よく解釈し、「司法の役割りはどこへ」と自分たちの主張に合わない判断が間違っていると主張するのは、残念なことである。